昭和40年8月9日 朝の御理解 ★



 真の、おー、信心とは。真の信心をさせて頂く。せっかく、おー、信心をさせていただくのでございますから、真の信心をさして頂きたい。まぁ、分かりやすく言えば、ホントの信心ということになりますでしょう。
 なら、金光様の御信心が、あー、真の信心で、他の信心は、あー、真の信心でないということはありましょう。本当ということの、いわゆる(きんかい?)なのですから。(きんかい?)のそろいです。ねぇ。
 ですから、真の信心、なら金光様のご信心を頂いておるから、みんな、ホントの信心を知っておるか、というと、金光様のご信心をいただいとりましても、本当の信心には、はー、えー、遠い信心をしておると。言うなら、間違った信心をしておるというような場合もございますでしょう。
 そこでその、おーホントの信心という、いわゆる真の信心という、そのう、どういうような、あー、あー、信心。どういうふうに、えー、自分の信心は、間違っていないだろうかということを、確かめ確かめしていくというところに、うーん、間違いのない信心を辿らせて頂くことができる。
 えー、もうすると、いわゆる、自分よがりというか、我流というか、も信心ができまして、あー、真の道をそれ、真の信心から離れ、ね。言うなら、本当ではない信心になってしまうような場合もございます。
 して、中々そのホントの信心というのが、ふんなら、えー、10年信心しておるから、ホントは信心しておる限りは、まだ信心を始めたばっかりですから、アー、違った信心かというと、またそうでもない。何十年信心しておっても、おー、それが真とか、本当とは言えない信心もある。
 信心の教えを頂かしてもろうて、ホンにそうだ、そういう生き方があったんだというふうに分からせてもろうて、そしてその教えに基づいた生き方をさせて頂いて、おかげを頂いていくなら、それこそ、それを外しても信心はあるし、えー、それから先は、ま稽古で。
 昨日、私ある方のお取次ぎをさして頂いたんですよ。そしたら、只今のような事を頂くんですねぇ。まぁ、心眼に、あの『★菊正宗』と。菊正宗、とこう頂いて、あのう、一番下の正宗の宗という字が、ウ冠に示すと書いてありあますねぇ。ウ冠に示すとかいてある。それをこう、ウ冠と示すという字を、別々に頂くんですねぇ。
 あー、菊というのは、言うならまぁ、し、本当の信心ということだろうと。それは、椛目の信心、または、椛目の信心の稽古をしている人達が、いわゆる目立たせて頂いておる信心。いつも自分の心の中に、菊の花のような、あー、信心の喜びというものを、信心の香りというものを心の中に頂いていきたいという、椛目の信心の一つの理想である。いわゆる、真の信心の、おー、ま言うなら、シンボルであると。
 正宗、菊、正という字は正しいと書いてある。ですから、まぁ言うなら、うー、信、ね、信心の信ですね。信、正しければ、ね。そこにおかげを神様が示してくださる、ということ。いうふうに、私は感じたんですけれどもねぇ。あー、その信心が正しいならです。神様は、それにふさわしいおかげ、または、神の実感、神様のご守護を受けておるんだという思いを、喜びを、あなたに送ってくれるはずだと。
 ところが、そのおかげも感じれなければ、神のじっ、し、ご守護を下さっておる実感もなからなければ、安心はない。いわゆる、喜びも安心もないとするなら、自分の信心をもう一度、深めて、沈めさしてもらわにゃん。して、お取次ぎを頂いて、真の信心の、おー(うちに?)でらなければいけないというふうに申しました。
 え、そこで信心というのは、もう信心ほど師匠、師匠が必要であるということ、私は感じます。ね。
 そこで、一番間違いがないのが天地金乃神と同根とまで、天地の親神様からご信用受けておられる、教祖の神様のご信心。いわゆる残されておられるところの、おー、御教えと、ご自身の信心体験をご理解しておっ、残しておってくださる、そのご理解に、御教えに基づいて私どもが生きていくということ。
 まぁ私共は幸い、三代金光様の御信心を頂いて、もう三十年間見てきております。ねぇ。もうホントに、目の当たりにそれを見てきておりますから、三代金光様のご信心の、お勧められ方、いわゆるあられ方、生きられ方といったようなものをです、私どもが神習う以外にないのです。ね。
 これはもう、一番間違いのないところの手本であり、または、同時に師匠であるということ。ねぇ。そこで、お互い工夫させて頂いて、例えば椛目で申しますなら、ね、信心の、例えば進め方というても、あいわゆる金光様のご信心。とにかく、あの十四歳のお年から、ね、七十年間という長い間をです。七十年間、そのまま一途のごとく、御神勤くださった。私共のために、お取次ぎくださった金光様の、言わば信心の勧められ方っていうのがです、まぁ、私どもの信心に、言わば取り入れられなければならんなと。いわゆる、手本にしなければならないなといわれておる。
 自分の気分のよか時だけ参るといったようなものじゃないですねぇ。金光様が(よぶ?)七十年間。しかも、朝の四時に、お、御神勤、お勤めになられる。それこそ、もう一秒間だってお間違えになったことがない。ですからまず私共の信心は、そういうような形、な、ない、あ金光様のお心が、真似はできることじゃないですけれども、せめてその、心を真似でもさせていただこうというのが、私が、んー、それは、そこの土地、土地とか、そこのお広前の、おー、環境やら、あ、し、し、しかり(光?)によって違って参りますけさども、ま形だけでも神習わせて頂こうというのが、私がここで五時の御祈念を奉仕しさして頂いてます。その五時の御祈念に、例え、なら一分間でも遅れるようなことがあってはならないというのが、ここに一つの命を掛けて金光様の信心を神習おうとしておる一つの現われなのです。ねぇ。
 どんなに例えば、うんなら、病気をいたしておりましてもです、それこそ、はいはいをして、這うてからでも、その御神前の、言わば、奉仕だけは、勤めさして頂きたいという念願。そういう一つの思い込みを持って、金光様のご信心を神習わして頂こうとしておる、一つのこれはあらわ、椛目の信心の現われなのです。ねぇ。
 ですから、皆さん御神勤をされても、いわゆるそういうような、ま、一つの、おー、形の上での、おー、信心が、まず持ってできなければならないということ。遠く共々参って、椛目の信心をです、はー、椛目の信心の教えよることはわかっとる、と言っておるようなことで、分かろうはずがないことを分からせて頂いた。なら私の信心は正しくないということを、まず一つ分からなければいけないと。
 ね、そうでしょうが。えー、ですからそれをです、例えばうんなら、金光様四時にお出ましなのだけれども、なら私は五時と。というように、私(なん?)の信心で、それを神習わして頂か( ? )でございましたら、も、そう信じおうた皆さんが、神習わして頂かれるのですから。
 ね、なるほど、それはもうホントに、(いちすもかすも?)とこう言いたいところだけ、なんだけれども、せめて月の内に一週間でも、そういう真似でもさして頂きたいということになりゃ、もうそれが、一つ手本になるわけでしょう。
 お日参りをさしてもらうと、朝参りをさしてもらうと、ちち、土心行さして頂くということがです、月の内に十日でもできれば、(いっそでも?)初めからされるというような事柄がです、まず、信心の手ほどきということにならなければいけないと、私は思うですねぇ。
 形の上のこと、そしてなるほど、これはありがたいことであるなぁと。というようにです、ねぇ、そのうありがたいという実感が、私共を、おー、そこに、その実感そのものが、神様のおかげをみし、示しておって下さるわけなのです。
 そこから、いわゆる、(でらからなければ?)頂けない喜び。でなければ頂けない心の安らぎというものを頂くことができます。ねぇ。
 教祖の神様がこういう場合、どういう生き方をなさっただろうかと。どういう道を、お、お勧めになったであろうかと、いうふうに、いー、私共が、あー、頂いて、(よーく?)教えというものを手本とさしてもらい、その教えを行じ貫いておられる先輩なり、師匠なりの信心を神習わしてもらう。
 そのへんがですねぇ、もう自分の信心は間違えないというふうに、もう(ひえ?)きってしまってですねぇ、ようその、お、お、心正しければっち正しいかどうか分りもせんのん、正しければとこう思うておる人がおるけれども、ねぇ。そこに、金光様の信心はうてば響くように。ね、いわゆる神様が示してくださるもの。これが必ず、伴うておらなければならないのです。
 どんなに正しい信心だ。場数の信心をしておるというても、ね。十年立っても、二十年立っても、よう恵まれた生活というようなものが、もしないとするならば、も、それだけでも、ちょっとおかしいと、こうまず、自分自身が育たなければなりません。
 えー、あるときに、ある方が、真の信心ということについて、金光様から、その、お書き下げを頂かれた。三代金光様から。あ、簡単に若手の信心、真の信心ていうから、ま、金光様の信心なら、真の信心だと思い込んでおる人もたくさんあろうと。自分の金光様の信心しとるから、真の信心しておるんだと思い込んでおる人がおる。うんなこっじゃん。
 私は、そんなお書き下げを見せて頂いてから、はー、ほんに真の信心だと口では言うけれど、真の信心とは難しい。果たして、は、ま、真の信心とは、どういうような信心を持って真の信心というのであろうかと思わせて頂いたら、ま、三代のこん、三代金光様かのお声でですね、「真の信心とは、安心の心を受けることであります」という言葉を頂いたんです。
 真の信心とは、安心の心を受けることでありますと。してみると、安心の心を頂かせて頂けれるよほどの、私は、まー、信心じゃなからなければ、真の信心じゃないということになるですねぇ。心配、不安、情想、あー情操じゃない、しょうそう(悄愴?)。ねぇ。にかわれておるような信心じゃ、(でやす?)、これは真の信心じゃないとまずわからにゃいかん。
 安心というのがなかなか難しいんです。なーんにもない。平穏無事。もう私は、もう金光様の信心頂いとりますから、もうどんな場合でも安心しとりますというような安心から、ねぇ。どのような中にありましても、神様を信じきらしてもろうてから、安心ができておるというのは、大変な違いなのです。ねぇ。平穏無事のときに、なんとなしに安心しておるというのは、それはホントの、信心でいうところの、安心立命的なおかげではない。
 えー、実はその、自分もその、それで真の信心とは、安心のおかげを受けることでありますという。そこで、自分はなら、安心を頂いておるというその、安心をいただいておる安心そのものを、もういっぺん検討してみなければいけないということ。ねぇ。
 その、安心のおかげを頂いておるならばです、ねぇ、なるほど、私は安心しておるという人がいくらもおるでしょう。信心して、おか、安心しおるという人が。そんな、果たして(おずの?)心の中に、どれだけ喜びがあるかということが、先に続いてなきゃいけない。
 なら、あなたの、その安心のおかげと(やおよろず?)どれだけ、おかげが伴うておるかということを言わなければならない。いわゆる宇宙が示す、いや、ね、ウ冠が示すという。神様が示してくださるところのおかげというものは、またどれだけ大事にしておるか。また誰が言うてもあうごと、金光様の信心を頂いてござる真の信心、者の、安心のおかげを頂いてござる人であろうと思われるものがです、形に現れておらなければならないということなんです。ということになってくるとです、やはり、まだまだこれでは、相成らんということになってくるんですよね。
 じゃない、じゃない。
 どうぞ皆さん、信心をされるならです、ねぇ、私そういう信心を目指さなければいけません。信心の稽古をさしてもらうのですから。ね。だから、一つあのう、我流の信心だけは、もういいかげんにお互いがやめなければいけません。また、自分よがりの信心もやめなければいけません。ね。
 そしてホントに、心の底から湧くところの信心の喜び、信心を頂いておることの安心。しかも、勿体無いことではあるじゃないか、私達のような信心でも、かかわる神様が御修行くださっておる姿をです、御修行くださっておるところの示しを、おかげの上にお示しをくださっておるということが、ありがたいじゃないかということから、信心がいよいよ極められていく。
 いよいよホントの物に、ホントの物へと、いよいよ垢抜けして行くというところのおかげ。信心はまず、自分の心。後は、自分の心がです、一心に正しければ、神が示してくださる、そ、その、そういうところをです、一つの心の定規とさせて頂いて、また、心を定規にさせて頂くこともあろう、なら、おかげを定規にさせて頂くこともあろう。自分の今考えておることを定規にさせて頂いたこともある。
 えー教祖の神様の生きられ方と言うものはです、こういうような生き方をなさっておる。こういうふうに教えておられると。私共現に、(  ?  )長年の間見せて頂いてきた、三代金光様の生きられ方、あられ方。あの、実意丁寧なご信心のお勧め方。それを、例えばそれを、(せんごんねつ、ろんぶんのえつ?)でも、自分のものにしていかなければならない。ねぇ。
 そこで、月の内三日でも、五日でもよいじゃないか、金光様のあられ方というものを、例えば、なら、ここで言うならばです、ね。金光様が七十年間という長い間を、四時の御神勤、それこそ、一秒間でも間違いなしに、お勧め抜かれたというのであるから、私共には中々それができませんから、せめて月の内に三日でも、五日でも、十日でも、なら御祈念なら御祈念前に、きちっと、信心の稽古に椛目に通わせていただくというような、信心の稽古が、まずまずなされてから、なるほどこれは有り難いと分からせて頂いたら、その根っこの五日になり、いつか十日になり、それが、言わば、年中そういうような信心ができるようになられたら、有り難いですね。
(終わり)


6月27日 いつのり